今週のお題「修学旅行の思い出」
今でこそ山と温泉のきろくなる「女一人旅ブログ」を更新している私ですが、生まれ育った実家は家族で旅行するということがまったくない家でした。なので、大人になるまで旅の経験値は著しく低かったです。
そんな私が子供の頃に楽しみにしていたのは「近場の温泉宿に湯治に行っている祖父のところに遊びに行って温泉に入り、昼食を食べること」と「夏休みに町内会の行事で山にキャンプに行くこと」でした。今でも、そのときのわくわく感はよく覚えています。
あのとき旅館に行ったのが楽しかったから、私は今も温泉旅館が大好きだし、山で泊まるのも好きなんだろうなあと。
そして今回「修学旅行」について考えてみたときに思ったのです。
高校を卒業するころに私は「東京の大学に行きたい、とにかく東京に行きたい」と強く願い、受験してその願いを叶えました。
その後も東京で職を求め、温泉旅と登山が趣味となった今でも、東京よりも山や温泉に近い土地への移住を検討したことは一度もありません。なんだかんだ、私は東京が好きなのです。それはもしかして、東京に修学旅行に来たとき、楽しかったからなんじゃあないかしら、と。
小学6年時の修学旅行先は「仙台・松島」でした
私の地元、山形県の庄内地方の多くの小学校では、修学旅行で「仙台・松島」に行きます。
松島水族館や八木山ベニーランド、そして松島で遊覧船に乗って周辺を一通り観光したはず、なのですが、今でも残っている記憶の9割が「宿泊した宿の部屋が最高に狭かった」ことなのです。山小屋よろしく1つの布団に2人で寝かされました。暑くて寝られませんでした。。。
子供心に「きっと予算が足りなかったんだろうな……」などと思っていたのですが、実はそうではなく、予算はあったのに担任たちが「狭い部屋で1つの布団に2人で寝るのも思い出になっていいだろう」というような謎のコンセプトの元にその宿を選んだのだそうです。同じ学校の翌年の6年生は、同じ予算のはずなのにホテルのツインルームに泊まったとのこと。
1学年下の担任の先生たちは「ホテルに泊まるときのマナーを学ばせよう」がコンセプトだったんだそうで、もちろん、ベッドは1人に1つだったとのこと!私もそっちが良かった!私らの学年はなんだったの??
おかげで仙台・松島には何のいい思い出も残らず、私は混んでる宿・混んでる風呂が大嫌いになりました。
30歳を過ぎてから旅行で仙台・松島にも再訪し「修学旅行のときはさんざんだったけど、実はいいところなんだな」と知りましたが、大学進学の際に「仙台に行きたい」とはまったく思いませんでした。私の地元では宮城県内に進学する人もかなり多いのですけどね。もしかしたら、あのときのトラウマのせいかもしれません。
中学3年時の修学旅行先は「東京・横浜」でした
庄内地方の多くの中学校は、修学旅行で東京に行きます。今でもそうなんでしょうか?
中華街を歩いてマリンタワーに上り、国会議事堂と東京ディズニーランドにも、もちろん行きました。夜は観劇組と野球観戦組に分かれ、そして丸一日、班ごとの自由行動がありました。
小学校の修学旅行から3年後のことなのですが、段違いに記憶が鮮明なのです。
国会議事堂を加藤紘一さんが案内してくれた
国会議事堂では、地元選出の議員だった加藤紘一氏が出てきて案内してくれました。
当時の私は至極学校の成績が良い、優等生だったので、担任の先生に加藤紘一さんの近くを歩くように誘導されました。田舎の公立中学って、ぶっちゃけヤンキーやアホな子がめちゃめちゃ多いので、案内してくださる紘一さんが近くの生徒に声をかけたときに失礼なことがないようにと、優等生の私が前もって配置されたようです。昔はそんなキャラだったんだな、私。
しかし、優等生だったとは言えしょせんは中3。
当時の私は、加藤紘一さんが地元選出の議員なことはギリギリ知っていたけれど、それ以上は何も知りませんでした。
なので「上品なおじさんだな」と思ったぐらいで、他に感想はなかったのですが、それから数年経って「YKK」なる政治同盟が脚光を浴びるようになると「あの修学旅行のとき、実はけっこうすごい人が出てきたんだな」と思うようになり「加藤の乱」の頃には完全に応援してましたw
当時、修学旅行から帰った直後、母親に
「国会議事堂を加藤紘一さんが案内してくれたよ」
と話したのですが、半加藤派だった*1母には
「そりゃ、あんたたち将来はみんな有権者になるんだから、今から顔を売っておくわよ」
と言われましたね。
あの加藤紘一さんが、そんな下卑た気持ちで中学生を案内してくれたとは思えないのですが……。
でも、あのときお目にかかることがなかったら、20年以上経ってこんな記事を書くこともなかったかもしれないので、相当印象深かったことは間違いないです。
班ごとの自由行動では集英社と竹下通りに行った
丸一日、自分たちで予定を立てて自由行動をする日があったのですが、2つ課題がありまして。それは
・指定されたいくつかの美術館のうちの一つに必ず行くこと
・アポ取りから自分たちでやって、どこか企業を見学に行くこと
というものでした。
山崎パンの工場やミスドの店舗に見学に行ったりする班が多く(パンやドーナツがお土産で貰えるということで、人気が高かった)あと、テレビ局の見学とかも多かったですね。
でも、なぜか私はそのとき、出版社かレコード会社に行きたくて「全部私が段取りするから!」という条件で同じ班の人の了承を得て、私が好きなところに決めてよいことになりました。
企業見学なんてみんな積極的に行きたいわけでもないし、面倒な段取りをしてくれる人がいるならどうでもいいや、任せるよというところだったんでしょうね。
当時はメールでの連絡はあまり一般的でなく、代表電話に電話をして連絡を取りつける、という方法しかありませんでした。何社かのレコード会社に電話して断られた後「見学ですか?大丈夫ですよ」との返事をくれたのが集英社でした。
ジャンプやりぼんを出している出版社ですから、同じ班の子にも「よく約束取りつけられたねえ」と、普通に喜ばれたことを覚えています。
当日は、午前中の時間帯で見学をお願いしたのですが、いざ訊ねてみると応対してくれたのは人事部の人でした。
大人になった今になって思うと
「人事部?広報部じゃなく人事部なの?人事って中学生の見学の対応までしなけりゃいけないの?」
というところなのですが、もしかしたら、午前中の時間帯に出社しているのが人事の人だけだった、ということなのかもしれません。編集部もいくつか見学させてもらったのですが、見事に無人でした。
でも、人事部の人が優しかったし、出してくれたオレンジジュースがおいしかったので、集英社の印象は今でも良いのです。子供って単純ですね。そして第一印象って恐ろしい。。。
もう一つの課題だった美術館は、誰一人興味がなかったので、とりあえず行くだけ行って一瞬のうちに出てきました。選んだのは伊勢丹美術館で、理由は、地理的に他の美術館より行きやすかったからです。二度と行くことはなかったけど、伊勢丹美術館もいつの間にか閉館してたんですね。。。
竹下通りは「やっぱ修学旅行なら竹下通りでしょ!」ということで行ったのですけど、なんで修学旅行生って竹下通りに行くんでしょうね?本当によくわかりません。でも行ったんだけど。
そのときはXファンだったので、YOSHIKIの生写真を買いあさって、クレープ食べて帰りました。あのときの生写真、どこにいったんだろう。。。そして生写真って何が「生」なの……?
でも、いろいろ書いたけど、中学の修学旅行はなんか楽しかったんです。東京楽しかった!
やっぱり、田舎の生まれなので都会に憧れがあったんですよね。東京は、どこに行っても都会で、その意味ではまったく期待を裏切らなくてうれしかったです。
高校2年時の修学旅行先は「京都・奈良」でした
進学した高校がいわゆる地元の進学校で、修学旅行は高校2年時に関西方面に行くことになっていました。
学年全体で行くのは「京都」のみで、あとはクラス毎に大阪や神戸に行ったり、奈良に行ったりしたのですけど、私のクラスは「日本史選択クラス」だったので、担任が勝手に奈良に決めてしまいました。たぶんこれも良くなかったと思います。
そもそも私は実家が寺だからなのかわかりませんが、寺社仏閣にまったく興味がないのですよね。今も昔もそれは変わらずで。
高校の修学旅行で覚えているのは、添乗員の男性がイケメンだったこと、奈良の大仏を見て鹿が怖かったこと、北野天満宮の前で売っていたたこ焼きがおいしかったこと、それだけです。。。
清水寺、とか、金閣寺、とか、三十三間堂、とかにもたぶん、行っているはずなんですが「たぶん行ったよね?あれ?本当に行ったっけか?」ぐらいの記憶しかない・笑
大阪に行ったクラスの子は、海遊館とかアメリカ村とか行ってたらしいのですけど、もしかしたらそっちに行っていたら、私の中での関西好感度がアップしていたかもしれません。何しろ都会が好きな田舎者だったのでね。。。
高校2年生の私の中には「京都は京都タワーと寺と神社ばかりの街である。つまらん」という印象がインプットされてしまいまして。
あの修学旅行以来、私が京都に行ったのは出張のときだけです。それも、用が終わるとさっさと帰ってきてしまう。。。
ちなみに、大阪はご飯がおいしいし、意外と温泉もあるからけっこう好きで、たまに無性に行きたくなります。なんか京都は興味湧かないんだよなー。観光客多すぎっていうのもあると思うんですけど。
小学校・中学・高校の修学旅行を振り返ってみて
修学旅行って単なる旅行ではなくて、先生方の「生徒たちにこういうことを学んで欲しい」という思惑が、かなり強く絡んでいるものなんだなあと、大人になった今、改めて思いました。
そして大概においてその思惑は外れるというか……子供だからと言って、いや、子供だからこそなのかもしれないけれど、思惑どおりにいくことは少ないものだよなあと。
実は、うちの父は高校の教員だったのですが、彼が学年主任をしていたころ、修学旅行の行き先を「盛岡」にしていたことがあるんだそうです。
子供の頃にその話を聞いて、正直「我が父ながら何考えてんだこの人?」と思いました。
だって、小学校の修学旅行が仙台で、中学校が東京だよ?それなのにどうして高校が盛岡なの?
普通はだんだん遠くに行くものなんじゃないの?盛岡って岩手だよね?仙台って宮城だよね?岩手って宮城の隣だよ?すぐ近くじゃん!しかも仙台よりたぶん田舎じゃん!そんな田舎に行って、いったい何をするの?
岩手県大好きになった今となっては、子供の私は本当に失礼なことを考えていたなあと思います。
で「どうして高校生なのに岩手に行かなきゃならないの?」と聞いたんですが
「岩手って山形に住んでると意外と行く機会がない場所なんだよね。でもとてもいいところだから、同じ東北の中にこんないいところがあるって知ってほしいんだよ。京都とか大阪とか、どうせ大人になってからでもみんな行くからさ」
と言われました。
今ならわかります。たしかに父の言ったとおり、岩手県は本当にいいところで、今となっては私も大好きです。ブログでも28記事岩手県の記事を書いていて、東北6県の中で一番たくさん足を運んでいます。
そしてたしかに、普通に暮らしていると岩手に行く機会は本当に少なく、初めて足を運んだのは30歳ぐらいのときでした。全部、父の言ったとおりでした。
でもたぶん、高校生のときに「東北の中にもいいところがあるって知ってほしい」という思惑のもとに、小岩井農場なんかに連れていかれたとしても「なんていいところなんだ!」と思うことはなかっただろうな、と思うのです。
大人になって1人で行ってみたからこそ「いいところだな」って素直に思えたけれど。
子供は大人の思惑どおりには、どうやっても生きられないものなんだなあと。そんなことを思いました。
大学進学直後、原宿駅で修学旅行中の母校の生徒と出会った
私にとって最後の「修学旅行の思い出」は、私自身が大学に進学して間もないころのことです。
高校時代から箱根駅伝をはじめとした駅伝観戦が大好きだった私は、大学では陸上競技サークルに入りたいと思い、4月のある日、某大学の陸上サークルの練習を見学に行くことにしました。
サークルの練習場所は代々木公園に併設された「織田フィールド」というトラックで、入部希望者は原宿駅の表参道口に集まって、新歓担当の先輩の案内で織田フィールドに向かうことになっていたのです。
待ち合わせの時間よりも少し早く、表参道口に到着した18歳の私は、緊張の面持ちで先輩が来るのを待っていました。と、そのとき。
「すみません。竹下通りにはどうやって行けばいいんですか?」
と声をかけられたのです。
ああ、修学旅行の季節だものね。そう言えば私も4年前のちょうど今頃、修学旅行で竹下通りに行ったっけ。竹下口って小さくてわかりにくいから表参道口に出ちゃうんだよねえ……私のときもそうだったよ。よしよしお姉さんが教えてあげよう。
そう思って声をかけてきた修学旅行生をよく見ると、あれ?なんか見覚えある制服。
というか私の母校の制服じゃないですか?
ん?というかそっちにいる子はなんか見たことある顔だな……ああ!そうか。
「もしかして、そっちにいるのってAちゃんじゃない?私、○○の姉なんだけど」
急に名前を呼び当てられた彼女は本当に驚いた様子だったけれど、私の顔には見覚えがあったらしく
「ああ!○○くんのお姉ちゃん!え?なんでここにいるの?」
と。そうか、別に私だと認識して声をかけたわけじゃなく、本当にたまたまだったんだね。恐ろしい偶然もあるものですね。。。
体が弱くて10歳足らずで死んでしまったけれど、私には4歳下に弟がいたのです。
声をかけてきた修学旅行生は、その弟の同級生だったのですね。それでお互いに見覚えがあって。そうか、もし生きていたら弟も今日、本当は、東京に来ていたんだね。
今、大学で東京に来てこっちに住んでるんだよー、と弟の同級生たちに軽く説明して竹下通りの方向を教えたところで私は、竹下口の方向から表参道口に向かって、恐ろしく人が多い中を軽やかに走り抜けてくる、やはり見覚えのある人影を見つけたのです。
え?
え?
あの人は、もしかして?
豆粒のようだった人影はあっという間に大きくなり、見覚えのある大きなストライドのフォームで、私の目の前を一瞬のうちに走り抜けていきました。
そこに、新歓担当の先輩が現れて「今日見学する月山ももさんだよね?遅くなってごめんね」と声をかけられたので私は興奮気味に答えてしまいました。
「今走っていったのって、渡辺康幸さんですよね??」
先輩は何でもなさそうに言いました。
「あ、そうそう。エスビー食品の陸上部も織田フィールドで練習してるんだよね。あ、月山さん彼のファンなの?」
ファンなんてものじゃない。いや、ファンなのですが。
大スター選手じゃないですか。
渡辺康幸さんを見たくて、彼の出場する大学駅伝すべてを録画していた私ですよ?
大学卒業後は故障もあってなかなか結果を残せなかったり、棄権が続いたりもしたけれど、それでも彼は私の中ではヒーローで。
それが、その人をこんな間近で見られる日が来るなんて。東京ってやっぱりすごいところなんじゃないかしら。
修学旅行に来ていた弟の同級生にあれほど大勢の中で話しかけられた直後に、ずっと好きだった憧れの人と出会えてしまった。
広いはずの東京の中で立て続けに起こった2つの邂逅に、私はわけがわからなくなって、ちょっとぼんやりしてしまいました。
そして、ぼんやりした頭の中でふと思ったのです。
きっと東京は、奇跡が起こる街なんだ、と。
だからきっと私は東京が好きで、今も東京に住んでいるのかもしれません。
もちろん、それだけが理由ではないけれど、それも理由の一つなんだろうとは思います。
*1:半加藤派なのは今もだけど