一人天国

一人は楽し、ソロ天国。

父と加藤鮎子氏と私

2017年の10月の土曜日、私は、上越新幹線の車中で国技館の焼き鳥をつまみに昼酒を楽しんでいた。

「転機」というテーマで何か書こうかなと考えたとき、最初に思い浮かんだのが、帰省のために乗っていた新幹線の車中で、昼から酒を飲んでいたこの日のことだった。

この日私は、入院中の父を見舞うために月曜日に有給休暇を取得し、2泊3日で帰省の予定だった。父は少し前に自宅で転んで足を骨折し、もともと週に3度の透析治療を受けていたということもあって、通院は大変ということで入院していたのだ。

母からの電話で入院について知らされたときも「まあ、1回ぐらいお見舞いに来なさいよ。お父さん喜ぶから」というような感じで、別段深刻な様子ではなかった。そこそこ遠方だし1泊2日の帰省は慌ただしいので、月曜に休みをとれる日程を選んだ。半分旅行のような気分だった。

土曜の夕方に自宅に着き、日曜に病院の父を見舞った。
なんにも知らされていなかったけど、父は直前に風邪をひいて高熱を出し、ようやく熱が下がったところだという。弱っている様子の父との対面は少しせつなかったけれど、私を見ると笑顔を見せてくれたので来てよかったと思った。

お見舞いの帰りには母と、マリカ東館に新しくできたFOODEVER内の和食店に立ち寄った。

f:id:happydust:20180514212938j:plain
f:id:happydust:20180514213007j:plain
f:id:happydust:20180514212943j:plain

母は私のように1人でふらっと出かけるタイプではないし、父は食事内容に制限があるので外食に行くことはほぼない。久々の外食で母も機嫌が良く、私も、地元鶴岡の評判の店でランチを楽しめて満足。さて、家に帰りますか。そのとき母が言った。

「今日が、鶴岡市市長選挙の日だって知ってた?」

「そうなの?知らなかったよ。私、鶴岡市民じゃないしなあ」

「現職の市長が、文化会館を改築するのにとんでもないことばっかりしてさあ。みんな怒ってるからたぶん現職は負けるわよ。若い新人が、新しい鶴岡市長になるわ」

ふーんそうなんだ、鶴岡市もなんか大変だね。と思ったけれどその日の深夜、母の予言のとおり若い新市長が誕生した。

ニュースを見て「おお」と思った。
何がおおって、1週間後に国政選挙、衆院選があるのだ。
鶴岡市は「YKK」として山崎拓氏、小泉純一郎氏と盟友関係だったこともある、加藤紘一氏のお膝元だ。

加藤紘一氏はかつて、隣接する酒田市の市長だった阿部寿一氏に選挙で敗れて政界を引退したが、その次の選挙では娘さんの鮎子氏が地盤を継いで出馬し、見事当選。父・紘一氏の雪辱を果たした。山形3区の現職の国会議員は加藤鮎子氏だ。紘一氏は2016年に亡くなったが、立派に跡を継いだ鮎子氏のことを、きっと誇らしく思っていたにちがいない。

しかし、今日の選挙で負けた前職の鶴岡市長は、鮎子氏の所属する自民党推薦、勝利した新市長は推薦こそ受けていなかったが、対立候補の阿部寿一氏が支援していたことは広く知られていた。国政選挙の一週間前の鶴岡市長選挙は「代理戦争」とか「前哨戦」などと言われて注目度が高かったようで。

そこで自民党が推薦していた前職が負けてしまったんだから、加藤鮎子陣営は焦るにちがいない。
明日から大物政治家が山形3区のあちこちに応援に来るんだろうなあ、なんだか楽しそう。私の投票する選挙区じゃこんなドラマありえないよ。。。

そんなことを考えつつ実家の自室で眠りについた。平和な夜だった。

まさか翌日の朝に病院から、父の病状の急変を知らせる電話がかかってくるなんて、そのときは想像もしていなかった。

それでもやっぱり、最後に会えて良かったと。

早朝に看護師さんが見回ったときは、普通に起きていてイヤホンつけてテレビを見ていたのだけど、それから朝食の配膳までの間に急変したのだという。

「心肺停止状態なのですぐ来てほしい」と言われて、私たちにはどういう状態か理解できず「もう既に意識はないということ?」「助かっても、いわゆる植物状態になっちゃうのかな」などと病院に向かう車中で母に問いかけられるも、答えられるはずもなく。しかし病室に着いてみると要するにもはや、救命の望みはない状態なのだった。集中治療室で酸素吸入器などの管に繋がれているのかな?と少しイメージしていたがそうではなくて、昨日面会した病室のベッドに、父は静かに横たわっていた。

間もなくして市内に住む親戚が病院にかけつけ、葬儀屋も到着し、遺体となった父は実家に移された。知らせを受けて集まった人たちはみな、東京にいるはずの私が既に来ていることに驚き「実は父を見舞うために一昨日から帰省していた」と言うと

「でも、こう言ってはなんだけど、最後に会えて良かったよね」

「きっと呼ばれたんだろうね」

「ちょっと待てよ、じゃあももちゃんが帰ってこなかったらお父さん、まだ生きてたんじゃないの?」

などと言われた。まあ、最後のは悪い冗談だろうけど、一理あるかもしれないとは思う。高熱を出した直後で弱っていて、そこに娘が帰ってきて、なんか安心しちゃったのかも。

でも、こんな風に急に亡くなってしまうとしたら、東京に住んでいる私が父の死の前日に会って話せる可能性は限りなく低かったはず。
私の帰省が父の死期を少し早めてしまったとしても、それでも最後に会えたルートのほうがなんとなく「俺の人生そんなに悪くなかったな」って思ってもらえた可能性が高いんじゃないかなって。そんな風に思っている。

それに、亡くなった直後のテンパってる母親を見たら、やっぱり私がいるときでよかったなって思ったよ。。。

父の死は一つの転機になるのではないかと、どこかで思っていた

さて!前置きが長くなったけれど、この記事のテーマは「転機」。

実は私「父の死」は自分にとって転機になるのではないか、とどこかで思っていたところがあって。
そう思っていた理由は2つあり、1つは「転機は大きな喪失と共におとずれるのではないか」とこれまでの経験から思っていたのです。

で、もう1つは「父が死んだら、私は結婚したくなるのじゃないか」と思っていて。

「一人旅」「一人登山」「一人飲み」が好きで、1人の時間が確保できないとストレスで死ぬんじゃないか……と思っている私だけれど、一応彼氏はいる。

そして、兄弟はいない。正確には、弟がいたのだけれど、体が弱く生まれたために、小さい頃に亡くなってしまった。

今頃は父とあっちで仲良くやってることだろう。

私がいくら「1人が好き」と言っても、それは遠く離れて住んでいるとは言え、家族がいるという前提あってのことなんじゃないか?と。
さらに言えば「1人でいるのが好き」なのは、弟を早くになくして一人っ子になった私に対して、どちらかと言えば過保護・過干渉気味だった両親の影響があるようにも思う。私に構わないでくれ、放っておいてくれ、1人にしてくれ、という思いを今も引きずっていて、両親以外の人に対しても同じように感じてしまっているのではないか、と。

父が亡くなると、私の家族は母1人になる。

本当に本当の1人になるかも?という状況が来たらさすがに不安になって「やっぱり家族欲しい」って思い始めるのじゃないか。そもそも「1人になりたい」っていう欲求自体、本当の意味で1人ではないからこそ生まれるわけで。

これまで「1人が好きだから結婚なんて興味ない」と思っていた私が「やっぱり結婚したいかも」と思うようになったとしたらそれは、大きな転機になるのではないだろうか、と。

父の死後、私は結婚したくなったか

こちらの記事に馴れ初めなど書いているのだけど、彼氏は私よりけっこう若くて。

まあ、彼と同い年でも結婚してる人はいくらでもいるけど、結婚してないからと言って「どうしてしないの?」とか言われるような年齢ではない。

そのうえ、本来なら結婚を焦ってもいいはずの私のほうにもこれと言って結婚願望がなく、そんなだから遠方に住む両親に、彼氏を紹介したこともなかった。だって紹介したらそれからずっと「あの彼とはいつ結婚するの?」って言われちゃうじゃない!

父が亡くなった日「今日東京に戻るつもりだったんだけど、実は父親が急死して」と電話すると、彼の口から出た言葉は「俺、お葬式に行かなくていいのかな」だった。

え?マジで?来てくれるの!?

ちょっと感激して、素直にうれしいと思って。

それで「じゃあ、葬儀の日取りが決まったら連絡するから、来れたら来てほしい」と言ったけれど、その後決まった葬儀日程を知らされたとき、私は「そう来たか……」と驚いた。

父の葬儀はまず近親者のみで「密葬」を行い、その後、日を改めて仕事関係者や知人も出席する「本葬」を行うとのことで、これ自体はまあ、よくある話だ。問題はその時期で。
密葬は父が亡くなってからちょうど1週間後の月曜日に行い、本葬はなんと、半年後の2018年の4月に行うとのこと。そんなに期間あいちゃうの?

もし、彼に出てもらうとしたら「密葬」ではなく「本葬」だろうと思っていた、けれど、来年の4月。。。
たぶん、彼が「お葬式に行かなくていいか」と言ってくれたのは、父が急に亡くなって気落ちしているであろう私を気遣ってのことだろう。でも、半年後……そんなに時間経ったら「もうよくね?」って感じがしないか?

もし「密葬」のタイミングで彼に来てもらえるなら……とも考えたけれど、近しい親戚しか集まらない日に、まだ婚約したわけでもない、ただの彼氏を呼ぶのはちょっと、いやかなり、気が引けるというか間違いなく母親がブチ切れそう。

だいたい、密葬は月曜日だしなあ。もし、私が「妻」なら彼も、親族の葬儀ということで忌引き休暇を取得できたのだろうけど、ただの彼女ではそれもできない。急には休めないよね、きっと。

というわけで、葬儀の日程が決定してから彼には「もし出席してもらえるなら、4月の本葬に出てほしい」旨を話したのだけど、やっぱりあまりにも先の話すぎて「あ、うん、じゃあ、近くなったらまた相談しよう」みたいな話に落ち着いてしまった。

2018年5月の現時点では本葬も既に終わっているわけだけど、結局彼氏は本葬には出席しなかった。だけど別に、私たちの関係がまずくなったというわけではなく、だからと言って結婚話が進んだわけでもない。つまりは、何も変わっていない。

父が死んだからと言って、私が急に結婚したくなったり、結婚話が進むということは、とりあえずこの半年の間は起こらなかったことになる。

何も起こらなかった理由として「ある程度予想できた事態で、ずっと心の準備をしていたから」というのも大きいかもしれない。
まだ若く、まったくの健康体だった家族を唐突に事故などで亡くしたのなら、それはそれはショックが大きくて「近親者しかいない場に彼氏連れてきたらまずいだろ」なんて冷静に考える余裕もなく、つらくて寂しくて1人でいたくない!なんて思ったかも。そのシチュエーションなら「忌引きが無理でも私のためになんとか休みを取って!」って頼んだかもしれない。なんかそういう自分が想像できないけど。。。

父はもう、10年以上人工透析をしていたし、透析治療を行うことのリスクは私も知っていたつもりだ。
「新・ブラックジャックによろしく」という漫画は、1型糖尿病から来る腎不全で長く透析治療を行っている看護師さんのエピソードを中心に話が進むが、あれの連載が始まったのはちょうど父が透析治療を始めたころで、最初に読んだときは泣いた。

作中で父親が死ぬ小説や漫画もよく読んでいて、変な話、予行練習をしていたようなところがある。
今でもよく覚えているのが、吉本ばななさんの「もしもし下北沢」という長編小説だ。

お父さんが不倫相手と心中してしまった娘の話なのだけど、双六小屋のテント場で幕営中に、風が強くて眠れなかった夜になぜかその本を読んでしまい、あまりにも泣けてしまって翌朝目が開かず、コンタクトレンズを入れられなくて困ったという思い出。。。

f:id:happydust:20180515030203j:plain

ずっと、そう遠くない未来におとずれるだろうその日のことが頭にあって、なんとなくイメージもしていた。
きっと私は東京にいて、母からの電話かメールで父の死を知るのだろうと思っていた。でも、現実はイメージしていたよりも私に優しくて、だからわりと、冷静でいられたのだと思う。

さて、時計を2017年の10月に戻そう。

密葬の日取りが1週間後の月曜日になったので、私は諸々の準備を整えるためにいったん東京に戻ったけれど、その後また帰省して、数日間を実家で過ごした。

その間ずっと、衆院選に向けた選挙戦が行われていたわけだけど、あの小泉進次郎氏が4~5回は山形3区に応戦演説に来ていて。まあ、安倍晋三氏も来ていたのだけれど、加藤鮎子氏の陣営は相当焦っているんだろうねえ、なんて鮎子氏のホームページを見ながら考えていた。

父が亡くなって間もないのになんでそんなに選挙のことを考えているんだよ!と思われるかもしれないが、逆で。この頃のことを思いだそうとすると選挙のこと以外あんまり覚えていないのだ。私なりの現実逃避だったのかもしれない。

亡くなったことをどこからか聞きつけた父の知人が、お焼香をしにうちに来たりしたけれど、私自身は父の知人と知り合いでもないし、共通の話題もない。そもそも知らない相手と話すのも苦手なのに、ずっと父のことを話しているのもしんどいので

「また小泉進次郎が鶴岡に来たって本当ですか?」

「ああ、昨日は櫛引に来てたよ。一度見に行ったけど、彼は本当に演説がうまいね」

みたいな話をしてお茶を濁したりしていた。

加藤鮎子氏と小泉進次郎氏は、父親同士が盟友というだけでなく、本人同士もコロンビア大学に留学時代に交流があったらしい。鮎子氏の初出馬のときから進次郎氏は何度も応援演説に来ていた。
歳も近く、親同士は盟友、鮎子氏は敵を作りにくい感じの清楚系の美人さんだ。
小泉進次郎、鮎子さんと結婚すればいいのに」と「羽生くん、佳子さまと結婚すればいいのに」ぐらいの無邪気な気持ちで考えたりしたけど、実際には鮎子氏はとうの昔に結婚されていて、同い年の旦那さん(イケメン)と、男のお子さんがいた。そりゃそうよねー(何がだ)。

近親者が集まる密葬の前日に、衆院選の投開票が行われ、かなり早い段階で加藤鮎子氏に当選確実がついた。
鶴岡市長選は衆院選の前哨戦」と報道されてはいたけれど、市民の多くは「市長選挙と国政選挙は別物」と捉えていたことは、うちに焼香にきた人の話からも感じていた。対立候補の阿部寿一氏の出身地である酒田市以外のほとんどすべての市町村で、鮎子氏のほうが多くの票を集めていた。

ところでうちの母は、阿部寿一氏と同じ酒田東高校の卒業生である。それもあってか密葬の前夜、あまりにも早い加藤鮎子氏の当選確実に母は憤慨していた。

「ないわー。加藤紘一の娘がこんな大差で2選とかあり得ないわー。また自民党が調子に乗るだけじゃない?ねえ」

と親戚に言い続ける母。なんで母娘揃って、父が亡くなったばかりなのに選挙のことを考えているんだろうね・笑
親戚たちも対応に困るだろうと思い私が引き受けることにした。

「お母さん、加藤鮎子さんと私は、30代で父親を亡くして間もないという共通点があるんだから私は応援してるよ。そんなに言わないでよ」

すると母は、つまらなそうにこう返した。

「そうね、彼女は最初の結婚こそ失敗したけど、イケメンの旦那さんと再婚して、旦那さんは鶴岡に住んでくれて男の子も生まれて、仕事も立派にこなして。あなたも見習ってほしいものだわね」

やぶへびである。

転機は大きな喪失と共におとずれるのか

母に「最初の結婚こそ失敗した」と言われた加藤鮎子氏だけど、そのお相手は、ゲス不倫で有名になった元政治家の宮崎謙介氏だった。
加藤紘一氏がまだまだ現職の議員で、鮎子氏が秘書を勤めていた頃に加藤家に婿入りし、数年で離婚した。宮崎氏は否定しているようだけど、後釜を狙っていたんじゃないの?と思った人も多かったのではなかろうか。
というか、政界のプリンスと謳われた加藤紘一氏が、結婚前に宮崎氏の本質を見抜けなかったもんかいな?などと邪推したくなったりもするけれど。。。

結婚したことのない私が言うのもなんだけど、離婚は大変なことだろうなと思う。でもきっとゲス不倫騒動の頃、鮎子氏の周辺の人たちは「鮎子さんが早めに気づいて別れてくれて本当に良かった」と思ったことだろう。

騒動で宮崎氏は議員辞職し、その宮崎氏との離婚を選ばなかった金子恵美氏は10月の、あの衆院選で落選して、やはり議員の職を失った。そして、選挙からしばらく経って、2人の姿を揃ってテレビで見かける機会が多くなった。
実を言うと私は、このご夫婦のことがそんなに嫌いじゃない。政治家だった頃にどうだったかはよく知らないけど、いい意味で「しぶといなあ」と思って。

だって、国会議員同士で結婚したはずなのに、気づいたら2人とも議員じゃなくなっていたってけっこうショッキングなことのはず。それなのに並んでテレビに出て、ジャージを着て芸人と一緒に健康診断を受けたりして、なんだか楽しそうにしている。
そういうのを「みっともない」とか「信念がない」と思う人もいるかもしれないけど、この2人を見ていると「いや、私たちもともとこういうのをやりたかったんで」とでも言いたげに見えて、悲壮感がぜんぜんない。一周回って「なんかいいな」と思ってしまった。

誰もが、離婚したくて結婚するはずはないし、落選したくて出馬するはずもない。

だけど、望んでいなかったカードを引いてしまったときに、どういう行動に出れるかで、その後の人生が変わることは大いにあり得るだろう。大きな喪失を経験したとき、ずどんと落ち込んで長く動きを止めてしまうよりも「いやまあ、こういうのも有りよね」と受け止めて次の行動を起こせたほうが、きっと事態は好転しやすいはず。私も、あんな風にしぶとくありたい。

10年前、私自身にも転機と言える出来事があった

私自身のこれまでの人生で、1番の転機になったのは今から10年ぐらい前、わりと大きな病気を経験したことが発端だったと思う。

当時の私は、今思えばけっこう面倒くさいタイプの男性とつきあっていた。ざっくりとした括りで言うと職業は芸術家。神経質でわがままで、女によくモテた。今考えると絶対に合わないタイプなのだが、どうしても好きだったので我慢していた。自分を押し殺しても、彼に選ばれたことのほうがうれしかったから。

当時働いていた会社は、給料は安かったけれど残業がほとんどなかった。できるだけ早く退勤して彼のお世話をしたかったので、その職場を選んだのだ。仕事も楽しくはなかったけれど、早く帰れるからいいやと思っていた。

そんなときに病気を宣告された。
死ぬ人もいるし治療もけっこう大変、後遺症が残ることもある病気だ。近所の大学病院で検査を受けて発覚したのだけれど「もっと専門的にやってるところに行ったほうがいい」と別の大学病院に紹介状を書かれた。

自分の人生にそんなハードモードが巡ってくるなんて想像していなかったし、ちょっとパニックになった。そんな私を芸術家の彼は「君がピリピリしている空気を感じると自分もおかしくなる」と言って突き放した。病気を宣告されて、私は1人になった。

あの頃、やや自暴自棄になっていた私の話を聞いてくれたり、一緒にライブに行ったりして元気づけてくれた友人たち。もう連絡を取りあっていない人も多いけれど、あのときの感謝の気持ちはずっと忘れない。以前ブログに書いた元キャバ嬢の彼女も、当時からの友人の一人だ。その当時は現役のキャバ嬢でしたね。

多少自暴自棄になったり、担当医が信頼できなくて病院を変わったりしつつもなんだかんだで治療も終わり、あとは月に1度、外来で定期検診に通うのみとなった。大学病院の外来は時間がかかるから、半休か、場合によっては丸一日の休みを取得するしかない。ところが、当時の勤め先がそのことに難色を示し「給与を下げる」と言い出した。
理由は「社長が出席する定例会議を毎月必ず休むとは何事だ!減給だ!」というもの。主治医が外来を担当する水曜日に、その会社では定例会議があったのですね。。。

そうか……まあそもそも、早く帰れることだけがこの会社を選んだ理由だったしな。潮時かな。
ということで「月に1度通院の必要はあるが、残業は厭わない」という条件で転職活動をし、採用されたのが今の勤め先である。まあ、会社に対してなんの不満もないとはさすがに言えないけど、少なくとも前の職場よりは楽しく働いているし、給料も上がった。

治療が終わり、転職して間もないころは特に「自分はこれから先、そんなに長く生きないのかもしれない」と思っていた。
だとしたらこれからは、全部の時間とお金を、自分のためだけに使おう。やりたいことは全部やろう。行きたいライブも舞台も、高いと思っていたけどフィギュアスケートだって見てみたい。
子供のころから好きだった藤井フミヤ氏のライブに初めて足を運んだのも、この頃のこと。

そうやってやりたいことをどんどんやっていく中で「温泉旅館に泊まるのってすごく楽しいな!」ということに気づいて。

さらには「1人で登山するなんていう楽しいこともあるのか!」と知り。

気がついたら「山と温泉のきろく」というブログを書いていた。

もともと私のブログを読んでくださっている方は「自分を押し殺しても、彼に選ばれたことのほうがうれしかった」「彼のお世話をするために残業のない会社に勤めていた」などのくだりを読んで「これは誰の話だ?」と思われたかもしれない。私です私。

途中で変わったというよりは、1人で好き放題やってる今のほうが本来の私だよなあと、今になって思う。あの頃は無理をしていたから歪みが体に出て、病気という形で現れたんではないか。

健康と恋人を一気に失い、会社にも愛想を尽かされたように思っていたけれど、健康は後に取り戻したし、恋人も仕事も本来の私にはそぐわないものだった。いろんなものを一気に失ったように思っていたけれど、振り返ってみれば、なくしたものはいらないものだった。言ってみればデトックスのようなものだったのかもしれない。

だけど「後になって考えてみれば実は必要のないもの」だったとしても、それまで当たり前にそこにあったものや、大切にしてきたものを突然失う痛みは大きかった。一歩間違えたら血迷っておかしな方向に行ってしまった可能性もあったと思う。あのとき、自分の頭で考えることをやめなくて本当に良かった。

何かを捨てなければ転機はおとずれないのか?

父が亡くなった後も「喪中だから楽しいことをしちゃいけない」なんて考えるはずもなく、山にも登っているし、昼から酒も飲んでいる。

ときどきは、彼と一緒の昼酒もあり、これも以前と特に変わっていない。

10年前のように無理はしていないので「しんどい」とか「つらい」とか思うことは、ほぼない。

だけどときどき思う「ずっとこのままでいいのだろうか」と。

たとえば彼とは?ずっとこのままの関係で、本当にいいのだろうか?

あるいは仕事や、ブログに関して。
ブログには今、月間10記事ほど新しい記事を更新しているけれど、正直なところ、会社勤めをしながら平日の夜に書くのではその更新ペースが精一杯だ。

でも本当は、やりたいことや書きたいことはブログでもそれ以外でも、もっともっとたくさんある。だけど時間が足りず、手を付けれていない。。。

新しい何かを手に入れるためには、これまで大切にしていた何かを手放さなければならないのだろうか?たとえば、ブログ以外の何かを書きたいのなら、その間ブログは休むしかないのか?他にやり方はないのか。

これからもずっと、考えていきたいと思う。登山や温泉旅をすること、1人でいる時間、彼氏、ブログ……どれも大切で、どれも手放したくはない。

だけど、現時点の自分がゴールで、ここから先、何も変わらないとしたら、それはそれでつまらない。現時点に大きな不満がないから、ややもすると「まあ、このままでもいいかな」と思ってしまいがちだけど、考えることと挑戦することは止めずにいたいと思った。

先月、ようやく父の葬儀が公的に執り行われた。
その中でいくつかの弔電が披露され、加藤鮎子氏の名前が読み上げられたとき、私は「これからは、総選挙のたびに父のことを思い出すのかもしれないなあ」なんて思いながら、軽く目を閉じた。

もしもこの先の私に、思いも寄らない試練のときがおとずれたとしても
自分を見失わずに、自分の頭で考えて、道を選ぶことができますように。
しぶとく、人生を生き抜くことができますように。
どうかお父さん、見守っていてください。

合掌。